こんにちは!『えでゅあ』です。
前回からの続きです。一向に何がいやになってしまい、不登校になっているのか全く分からない息子に対して、自問自答を繰り返す毎日を送っています。前回の記事はこちらです。
前回の記事を書いている途中に思ったことは、子供に対して大人が何気ない気持ちで使っている言葉。その言葉というにはものすごい力があるのではないかという部分をテーマについて考えてみたいと思います。
まず、なぜ言葉を人間が発するのか意味を考えたときに、シンプルに文字として書くと『自分のいまの思いを伝えるため』そのような意味合いがあるのではないでしょうか。周囲から発せられる自分に対しての「言葉」というものを一切気にせず生きています、そんな方も稀に見受けられますが、多くの人はそうではないのではないでしょうか。
例えば、わたしであれば「ありがとう」と言われれば嬉しいですし、逆に「きらいです」と言われれば少なからず心という水面に波紋が広がるように動揺を感じてしまいます。メンタルが強くない人は極力人と無理な干渉を避けていたりするのではないでしょうか。わたしはそんな一人です。
言葉というものはそれぐらい簡単に人の心理の中へ入っていき、まったく無関心な事柄でない限り、何かしらの喜怒哀楽を生むものだと思います。そう考えたときに子供たちの言葉というものに『真剣』に向き合えていなかった自分自身が居たことに気づきました。というのも単純に日常の忙しさに追われ、与えられた仕事をこなすため、帰宅しても頭の中ではグルグル仕事のことを考えてしまっている日もかなりありました。(現在はシンプルに生きることを価値観として理解しているため、極力不要なもの、捨てれることを増やし、自分のやりたいことに時間を確保することに専念しています。)
数か月前までなんであんなに「自分中心」の生き方をしていたのか、いまではある程度理由は分かっていますが、当時はそれが「当然」であり、子供たちには申し訳ないなと思いながらも、「ふーん、そうだねえ」と感心を示す『余裕』がなかったのが事実としてありました。子供としては伝えたい思いがきっとあったはずなのに、聞けてなかったんですね。そして、それが「聞けてなかった」と思っていたことこれも自分本位な考えでした。会話には「相手」が必ずいて、相手の「思い」が言葉にはあります。つまり、聞けていないのは自分のことであって、相手としては、『聞いてもらえなかった』という感情が生まれてしまっていること、気づけば当然であるこんなことも日常に追われていると見えなくなってしまう。無意識に発してしまっている言葉から子供もきっと辛い思いをしていた日があったと思うと、
もうこんな思いをさせたくない
だからこそ、自分に『余暇』を作ることこそが、心の余裕を生み出し、本当に自分が大切にしている人たちを思い、大切にできることだとわたし自身はたどり着きました。子供に何か求める前に、自分を見直すことが長期的には必要です。
でも、決して自分自身を責めることはしないでください。その時は必至で悪気があったわけではないはずです。今日から少しずつ取り組んでいきます。
それでは。。。続きはまた!
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次回も気が向くままに
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