こんにちは!『えでゅあ』です。
前回からの続きです。一向に何がいやになってしまい、不登校になっているのか全く分からない息子に対して、自問自答を繰り返す毎日を送っています。前回の記事はこちらです。
夏休みも終わって気づけば2か月、息子は一行に学校へ通える状態にはなっていません。「早く学校へ通えるようになってほしい」と焦る気持ちを本人へ伝えることは、逆にプレッシャーになってしまう。こんな状況が毎日続いていることはお互いにとって意味があるのか自問自答しています。ただ、最近芽生えてきた感情として、
頑張って学校へ通えるようにすることは意味がある?。
このことについて、考えてみたいと思います。
わたし自身小学生のとき「不登校」になったことは正直ありません。わたし個人かもしれませんが、過去の記憶は「楽しかったこと」、「いやだったこと」この二極化されたものしか覚えていません。どんな感情で小学校生活を送っていたのか、冷静に考えてみても、「友だちと放課後遊ぶのが楽しかった」とか、「わたしの行動が原因で〇〇先生に怒られて廊下に立たされた」などの鮮明な記憶はあるものの、日常をどのような感情で過ごしていたのかと言われると、「わくわく」していたのか「モヤモヤ」していたのか、いくら見つけようとしても自分の感情の外側から拾ってきたような答えしか見つかりません。いい意味では、大人になってから複雑な感情を受けて見えにくくなりやすい、「やりたいことをやる」というシンプルな行動と、その行動が小学校のルールで認められるものではなく「怒られることがあった」『だけ』なのかもしれません。
そう考えると、複雑に思う不登校になっていることも実はシンプルに考えることもできるのかもしれません。たとえば以下のようなことがあるかもしれません。
①〇〇先生が苦手で行きたくない。
②〇〇くん、〇〇ちゃんが好きではなく、会いたくないから。
③おもしろくない科目があってやる気がでないから。
これらは、それぞれ違う理由に思われます。ただ、もう少し深堀して考えてみます。
①〇〇先生が苦手で行きたくない。
→なぜならば、できないことを責められたから。
→だからこそ、得意なことを伸ばしたい。
②〇〇くん、〇〇ちゃんが好きではなく、会いたくないから。
→なぜならば、人が嫌な気持ちになることを言うから。
→だからこそ、人の気持ちを大切にしたい。
③おもしろくない科目があってやる気がでないから。
→なぜならば、興味が持てないから。
→だからこそ、興味のある科目だけやりたい。
実はネガティブな行動や感情には、深堀して言い換えることで、ポジティブな『自分の中にある大切なもの』が隠れていることに気づきます。(ここでは、一例で同じ理由であっても大切なものはそれぞれ異なると思います。)
そう思うと、不登校になっている息子をただ「学校へ行かせたい」という理由で彼を動かそうとすることは「無理」であることがわかってきました。なぜならば、ただ他人や世間からの評価を気にしていっているだけであることと、漠然とした将来「不利になるのでは」という不明確なものだからです。
このような他人軸で伝えようとしても、息子には伝わらないと思うと、わたし自身ももっと真剣に彼に寄り添い、自分軸での本当の気持ち・大切にしている思いを伝えなければならないと思います。
できる、できないではなく、やりたいかやりたくないか
息子の行動、表情、発言ひとつひとつを真剣に受け取り、本当にやりたい・大切にしている気持ちをわたしは見つけたいので、見つけます。
家族のことで悩まれている方、同じように不登校で悩まれている方に少しでも共感やお役に立てると幸いです。
それでは。。。続きはまた!
この記事に対して何でも良いので、コメントいただけると嬉しいです。
次回も気が向くままに
前回の記事はこちら